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きれいに刈りとられた田植え前の畦に、小さな生命が早々と花を咲かす。
奥伊勢・栗谷川流域の息吹
「卯の日は休み」が地域の伝統


庭先で話をする滝本栄蔵さん
「本当は田植え前で忙しいのやけど、今日は卯の日で休みだ。ついでに裏も見せようか」
 卯の日にはタネを播くな、という言い伝えがこの地方にはある。見事なしだれ桜に惹かれて入り込んだ民家の庭先で、卯の日休みの滝本栄蔵さん(70)が裏山に誘ってくれた。
 屋敷の裏がすぐに杉山である。せせらぎに沿って杉林に入ると、急に冷気を感じた。
 「3町歩はあるかな。広さはたいしたことない。植えて40年はたつな」
 滝本さんの家は代々林業で暮らしを立ててきた。40年前、裏山の杉を売ったときは、一財産と言われるほどの金額になったらしい。そのあとで植えた杉が立派に育っているのだが、売る予定はないという。国産材の市価が低迷しているからだ。
 裏山は切り倒した杉の間伐材が、横になったまま山の斜面を覆っている。間伐材を放置して土留めにしているのだ。
 滝本さんの自慢は、チョロチョロと水の流れる沢沿いに群生しているエビネランとクマガイソウだった。透き通るような若葉の中から茎を伸ばしたクマガイソウのつぼみが、あと数日もすれば満開となるだろう。自然にこぼれたタネだけでなく、株分けをして少しずつ増やしてきたのだ。
 自然の地形をそのまま活かし、素朴だがスケールの大きな山野草園となっていた。
 
 三重県最大の流域面積と流路(長さ)を誇る「宮川」の上流、多気郡大台町。宮川というより、伊勢神宮の「五十鈴川」上流と言った方が分かりやすいかもしれない。紀伊山地の東麓にあって、奥伊勢と呼ばれる一帯だ。
 大台町の栗谷地区は、宮川の支流の1つ、栗谷川流域に広がっている。栗谷川に注ぐ幾筋もの渓流がえぐった無数の谷があり、谷の一つひとつに何軒かの民家が点在する。909を数えると言い伝えられてきた谷間に71戸、178人の人々が暮らしている。
 
 玄関先では滝本さんの妻、浩子さん(68)が、手作りのヨモギもちとお茶をふるまってくれた。古いアルバムを抱えてきて、小学校の卒業写真や結婚式の写真、軍服や和服姿で写った人々の古びた写真を指さしながら、一つひとつの物語を聞かせてくれた。
 古いアルバムに登場する人々や風景は、浩子さんの一生を形作り、彼女を支えてきた記憶の映像なのだ。栗谷地区の谷間に点在する家々には、大河ドラマに匹敵する家族の物語が秘められていることだろう。
 谷を満たすのは豊かな自然だけではない。代々の家族を支えてきたゆるやかな時間のままに暮らす人々がいる。

文・伊藤直枝
写真・芥川仁
  
リトルヘブン余禄 
 創刊以来、今号で季節がひと巡りしたことになる。
 特別に名の知られた地域ではなく、ちょっとした伝手を頼りに訪ねた土地ばかりである。今号もそうだが、読者からの提案を頼りに訪れてみれば、それぞれの読者に深い関わりのある土地は、無名だからこそとも言える、その土地特有の魅力を秘めていることに気付かされる。
 人に、その人固有の物語があるように、土地には、その土地特有の物語があって語りかけてくれるのだ。
 本紙ではこれからも、人と土地が秘めている物語を掘り起こし、物語の背景となっている自然界の営みを伝えていくことで、人々が自然と交わることの大切さを見つめていきたいと、改めて思った。
 今号の取材は、大阪市にお住まいの読者小竹佳衣子さんからの提案で実現した。彼女の母が生まれた土地である。母親思いの小竹さんが掘り起こした栗谷物語なのである。
編集室・芥川 仁
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